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心の休憩場所 [思い出]

一見ベタな場所だが、ふらりと散歩するには丁度良い距離。
場所は千葉市中央区の高台、千葉城や大学付属病院がある。
四季折々花が…なんてことはない。雑木林だ。だが、その中を散策すると都会とは一線を画す「昔の道」、いや山の中に迷い込んだような懐かしさがある。子供の頃に遊びに行った冒険の森、大人と一緒に山菜取りなどで雑草を踏みしめて歩いた「あの道」がよみがえってくる。注:園内の花木は採取禁止!
とはいえ、延々と続く訳ではなく一回りが適当なウォーキングになる長さなのだ。最終目的地には野鳥観察の出来る小屋がある。池のほとりで昔は国立の畜産試験場だった場所で公園全体は東京ドーム5~6個分はある広さの一角である。木の種類がどうの、あの鳥の名前は何だなんてことよりも、その場所が昔幼いときの記憶に引き戻してくれるほっとする空間であるのが良い。特に冬の午前中、空気の引き締まった中を鳥の声がこだまする。

※PHOTOはイメージ、以前ブログ内で使用済み。

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幼い時の私的思い出 tom room:「あえぐ夢」 懐かしき私の昭和
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一年経ちました [思い出]

ついばむ.jpg
休止してから、約一年。社会情勢は色々変化しましたが、私の環境はそれほどの変化はありませんでした。
新たなトライも終了して少し時間もできたことだし、そろそろ、続きを始めようかと考え始めていますが、たったひとつ歳を取っただけなのに、なぜか頭の回りが鈍くなった…と思う今日この頃。
久々のso-net blogも機能が増えたり、プロセスがこまごまと面倒になった気がします。さて、ついて行けるか。
焦らず、今までよりも更にユックリとマイペースでいこうかと思います。
まずはこのサイトの勉強からかな。とりあえず手探り状態。

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幼い時の私的思い出 tom room:「あえぐ夢」 懐かしき私の昭和
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近況報告 [思い出]


久しぶりに管理ページを見たら閲覧数が1万2千件を超えていました。
もちろん、一日で何十万件もアクセスがあるサイトもあるようですが、私のような地味な文章をいまだ読んでいただけているなんて感激です。
多くはクリックだけで通り過ぎていく方達だとは思いますが、興味をもって最後まで見ていただいている方には感謝です。

只今、現在の仕事以外に新たなビジネスの研修を行っておりまして、思い出の「少年期」を書きたい気持ちは一杯ではありますが、もう少しかかりそうです。
それにこれからの出来事には殆ど関連付けられる画像が無いのでこれをどうするか苦慮しております。
幼いときは親戚や知り合いがカメラを持っていて撮ってくれることもありましたが、「少年期」は小学校からの事柄ですので結果、学校で撮影したたとえば修学旅行の写真しか無いのです。
しかし、ブログの文章と言うのは多分に文字のみの羅列では読んでいただく方にも苦痛を与えかねないので、どのようにしてこの問題を解決していくか…

と言う課題を抱えながら時間が経過しています。
さて、どういうことになりますか。
絶対に続けるほどの根性は持ち合わせておりませんが、書きたいのも事実!
模索中の今日この頃です。

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幼い時の私的思い出 tom room:「あえぐ夢」 懐かしき私の昭和
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「あえぐ夢」 懐かしき私の昭和 幼年期-20 [思い出]

昭和32年、6歳の春だ。この年の4月からは、私は小学校に行くことになる。新しい年(新学期の意)を迎えれば友達も出来る。その話は「少年期」で記することにするが…

そんなうららかな季節になると黒川家の親と私は墓参りに行く。「春の彼岸」だ。
私は3才の頃から墓参りに連れて行かれている。年に最低でも4回である。春・秋の彼岸、夏のお盆の前に掃除をする。それに年末。本当は正月に行くものらしいが、墓が遠く正月には人が来ることは前述したとおりだ。なので、12月も末になるといくら寒くても掃除である。

その当時は自家用車も無く、タクシーなんて贅沢だ。バスで小一時間、霊園の入り口から20分歩いて到着。早速、カマで草刈りだ。これはおじいちゃんの仕事、それに習って私は草を抜いていく。それに花立の水の取替えや…と言うのは今でも、どこでも当たり前だ。
しかし、ウチの違うところはそこから知り合いの墓をはしごする(序で参りは良くないと言われるのだが) 。みきばあさんは、ご先祖様にまで社交的だ。次から次へと4箇所はお決まりのコースだ。霊園は広大だ。終わるのは午前中に行っても午後の3時頃になる。私達人間はその後、近くの食堂で昼食をとる。その間、私に掃除の仕方やコースを教え込む。「墓守」にもするつもりで一緒に連れてきているのだ。
そして現在、私は相変わらず墓参りに行っている。誰に言われるわけでもなく、躾けられたとおり。既に黒川家の夫婦は逝っている。3人で来ていた霊園も今は自家用車で私一人、それに回数も年6回に増えている。そう、おじいちゃん・おばあちゃんの命日にも出かけている。条件反射とは言わないまでもそれに近い。行かないと気分が悪いのは「すり込み現象」だろう。黒川の娘は、一人は亡くなっている。もう一人は墓参りには行くが嫁に出ている。私はおじいちゃん・おばあちゃんと墓で会うのが好きだ。それも一人で。いや「三人で話す」のだ。

今までの幼年期では育ての親に対して、愚痴ばかり列記したような気がする。それは私が3才から5才の記憶とその時の感情を考えるとこうなってしまうのだ。もっと悲惨な子供時代を送った人もいるだろうし、今でも生きていくのが困難な子供も世界中にいることは承知している。
ましてや、預かってくれた夫婦が意地悪をしたりするはずも無く、教育・躾けとしての言動、行動である。他人としては充分な愛情を与えてくれたのだと今になれば分かる。

私はこの「あえぐ夢」を書く前に「男たちの大和」と言う映画を見ている。観たと言う人もいるだろう。細かいことは書かないがこの話、戦艦大和が沈んだところへ行きたいと漁師に頼む女性がいる。元、その大和に乗っていた老人が船を出してやる。その時のやり取りだ。大和に乗船していた戦友の兵士が終戦後、11人の戦争孤児などを引き取って育てた。実はその女性も本当の娘ではなく、父親は「育ての親」である。そうして、その親の意志である「私の遺骨は大和の沈んだところへ返してくれ」の言葉どおりに海へきたのだ。苦しい凄まじい戦いの後、その兵士は何故に多くの恵まれない子供を引き取ったのか。それは、「一緒に戦って死んでいった戦友の身代わりに子供たちを育てた」のだと言う。

これは物語であろう。黒川家は軍隊の賄いをやっていたと書いたが、何十人、いや何百人と兵隊(大和と違って陸軍だか)を戦地に送り出したのだと思う。現実におじいちゃんの弟は南方の島で戦死している。山部裕次郎おじさんも黒川家から出兵して戦地へ赴いている。
飯を食わせると言うことは親代わりに育てると言うことだ。可愛がっていた、親しくしていた人たちを戦いに行かせる事への悲しさ、苦しさは私が計り知れない苦渋の想いかもしれない。序章に書いたように、確かにおばあちゃんが自分の子供を亡くしたことも、私を預かることに起因していたのだろうが、夫婦で協力しなければ子供は育てられない。夫婦二人の戦争でのこんな経緯も困った子供を預かる原因の一つになっているのかもしれないと、この映画に教えられた。

実は私の前に一人女の子、私の後に3人男女の子供を預かって育てている。私だけが本当の親から離れ、成人まで居候をしていた訳だが、終戦後、孫まで入れると7人の赤ん坊を育てた(自分の子供は数に入れていない)。共稼ぎをしなければ生計を立てられない夫婦とか、事情があって母子家庭になり、父親から認知してもらえない孤児同然の子だとかを困った人から預かった。
私はこの映画のようにもしかしたら、送り出して亡くなってしまった人々の身代わりなのかも知れない。黒川夫婦は当時のことの多くを語らなかったので、今となっては真意は分からない。

もし、そうならば不甲斐無い男になってしまった自分を顧みると二人に申し訳が無い。残念だ。その一例として、前作「顛末記」で失敗した時、既に旅立ってしまったあの夫婦に「こんな人間にするために一生懸命育てたのではない」と言われているような気がして涙したことも確かだ。

ちなみに、7人目の子供を親に返した後、私に「もう一人預かってよいか」と聞いたことがある。それは私にまた、子守をしろと言うことだ。既に16才で勉強も忙しい最中、「いい加減にして」と言ってしまったことを、今は後悔している。

これで私の幼年期の思い出は終わりだ。もっと沢山記憶があるが、特別書くことでもない。「後述」と書いていまだ出てきていない「本当の母親」の、「弟の実」のそして「明子おねえちゃん」の性格、序章で出てきた夢の中の「博おじさん」などは少年期で書くことになっている。
小学校前までの感情を素直に書くと起伏などあまり無いのが本当のところだ、あとから思い出すから大人になってからの想いがプラスされてしまう。更に表現力の無さにつくづく悔やむがそれは勉強不足、所詮素人なのだから小説家のようには行かない。読んでいただいた方には感謝の念に堪えない。

次は「少年期」だ。続けてみたいとは思う…今までは勢いで書いてきたのだが。それは暫く時間をおいて考えてみたい。              とりあえず「少年期」へ続くか…?

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「あえぐ夢」 懐かしき私の昭和 幼年期-19 [思い出]

これまでの数年は風の音と雨の音、そして鳥やセミの鳴き声、木々の枝がこすれる音や葉の揺れるユッタリとした、それでいて一人遊びの多い孤独な時間が過ぎていった。私は6才になっていた。まだ小学校に入学する少し前の話をしよう。この年、黒川家ではおばあちゃんが体を壊して床に就く日々が続き、相変わらず、いやそれ以上に私は下働きのような手伝いをしていた。

家の目の前にある畜産試験場には官舎という仕事に従事している家族の住まいが並んでいた。 そしてその人達が畑を作っている。 我が家の目の前に広がる畑はそれである。道を隔てて土手を降りていくと色々な野菜や果物を栽培しているのだ。

官舎の人達とはおばあちゃんを通じて私も顔見知りだ。そんな中でも仲の良かった家族が居た。といっても子供は既に結婚してその官舎には居なかった。夫婦二人の寂しさからか、私を可愛がってくれた。 ある日、「シュウちゃん、そろそろ畑にイチゴが出来てきたから食べごろのを採って食べて良いよ」といってくれた。当時としてはどこの農家でも作っている、そして私が一番好物の果物だ。バナナなんて今になると皆、同じフレーズを言うが病気をした時の見舞いと、どこかのおすそ分けでしかお目にかかれない高価な食べ物だ。 マスクメロンとかは勿論、りんごやみかんも季節物で一年中あるわけではない。

なので私は早速畑に飛んで行った、そうしてその赤々とした甘く美味しそうな小粒の果物を、嬉々として畑で採って食べた。 満足した頃に「こんなに美味しいのだから、おばあちゃんやおじいちゃんに持っていってやったら喜ぶだろうなぁ」と私は考えた。 そこで家に戻ってバケツを持って再び畑へ。一生懸命に熟しているイチゴを探しては採っていく。入れ物に半分くらいになっただろうか。いくら沢山あるといってもやはり遠慮もある。

私は遠慮の塊である。幼いときからのおばあちゃんの躾だ。 少し話がずれるが、村などの知り合いのところへ世間話に行く、それについていく私。当然その家でお茶が出る。菓子が出る。 「シュウちゃん、お菓子食べなさい」と進めてくれる。子供なのだから素直に「ウン」といって手を出す。すると、みきばあさんは「まあ、この子は直ぐに手を出すんだから」などと怒るのだ。私は食べたいと言う気持ちと裏腹に我慢をする。 家へ帰ってくると正座で小言を聞かされる。「遠慮と言うものを覚えなさい、私の躾がなっていないと思われて恥をかく」と言うのだ。 犬と同じだ、何回か「まて」をされると習慣になる。どこへ行っても「くれる」と言うものを貰わない、可愛く無い子になっていた。以来、現在まで私は遠慮で損をするタイプになってしまった。

話を戻そう。ウキウキとイチゴを採ったバケツを持って家に帰る。病で寝ているおばあちゃんに洗ったそれを皿に乗せて持っていった。 すると「お前、お金も持っていないのに、これどうしたんだい」と問い詰められた。細かい話をしないのがいけなかったのか、「あそこの畑で採って来た」と話した。 おばあちゃんの形相が変わった。「お前は盗みをしたのか」というのだ。「採った」が「盗った」になってしまった。言い訳をする前に私は腕を捕まれ、門の外まで連れ出される。 官舎のその知人に謝らせに行こうというのだ。病人にしては力がある。6才の子供などそんなものなのだろう。 引きずられてその家へ連れて行かれ、頭を下げさせられる。家人に「私が良いといったのよ」と説明されるが、子供を庇っていると取られたらしい。その人が止めても頭に血が上った彼女には通じなかった。 その頃の「おばあちゃん」は40才代半ば、そろそろ更年期障害も出ていたのかも知れない。それとも病気がそうさせたのか、とにかく直ぐに「かっ」とすることが多かった。

家に帰ってくると寝ている布団の前でまたまた正座させられて、懇々と説教をされる。「このまま大きくなったらどんな人間になるか、恐ろしい」とまで言われる。もう、疑いは晴れない。私は泣いた。とめどなく涙が出た。しゃくり上げながら声を出して。本気で泣いた最初だったと思う。それは怒られたからではなく、おばあちゃんのために一生懸命に採ったイチゴを捨てられ、疑われ続けた悔しさからだ。 6才の子供がどのように言い訳をしたら疑いが晴れるだろう。ただ、ただ、それが済むのを待つばかりであった。

これまでの大半はおばあちゃんの話で終始した。しかし私は「おじいちゃん子」である。以前も書いたが、無口で温厚、何をしても怒らないというのが子供の頃の印象だ。 私はその歳では当然小遣いを貰っていない。使うこともあまり無かったが、それでもたまに欲しいものもある。殆どが飲み物やお菓子である。そんな時、「おじいちゃん、○○が欲しい」といえばニコニコしながら黙って財布から小銭をくれる。 おばあちゃんが厳しくて、おじいちゃんが優しい。教育的にはバランスが取れていたのかもしれない。 唯一、甘えられる人ではあるが、平日の昼間は仕事に出ているので普通の子供とは違い、一日中「母」に甘えると言うようなこの歳には大切な経験は無い。 だいいち、母親に甘えるような深い愛を男である「おじいちゃん」に感じることは無かった。それは今、「父親」になった私もそうだが、抱きしめるとか頬擦りをするとか手を握るなどのベタベタと寄り添うようなことはさせないのだ。 それとも他の父親はそういう甘え方をさせるのだろうか。私はそういう育てられ方を経験していないので分からない。もし、お父さんにもそんな優しさがあるのだとすれば、私の子供は可哀想だった。私もまた、自分の子供に「おじいちゃん」にそうされたように接しているからだ。

おじいちゃんの口癖を書いておこう。私には印象的である。 「親を外すと子供まで外れる」である(この外すとは生活、金銭、心情、人格的に欠落するの意味だろう)。自分も親には苦労したらしい。人生に良いことが余り無かったのだろう。一生懸命働いて大成する「一代で財を成す」人もいれば、いくら努力しても親や家族に足枷を掛けられたような人生を送る人もいる。あてにしてはいけないが親の財産がある人は絶対的に人生を一歩リードしている。受け継いだ人の人格にもよるが少なくても苦労はしないだろう。 「お前も気をつけろ」と言うおじいちゃんの戒めの言葉だったかもしれない。今、私は外れているのかもしれない。親として。 私の「本当の親」も外れているからだ。

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「あえぐ夢」 懐かしき私の昭和 幼年期-18 [思い出]

記憶なんて曖昧なものである。「あれを思い出した」「これがあったっけ」なんて思うがままに列記していくと時期が交差する。
もしかして、もっと先のことかもしれないがこの時代の出来事と勘違いしていたり、同じ事を後にも経験していてオーバーラップさせて、その時に体験していなくても膨らませてしまったり。
50年前のことなのでハッキリと覚えている方がオカシイとは思うが、適当はいけない。とはいえ、調べようの無いのも事実。何しろ私の中の昭和なのだから。

食べ物の話は何回か前に話したが、それは嬉しい楽しい美味しい食べ物。
当時はそれほどの種類があったわけではないので列記してもたかが知れている。ショートケーキはあったかもしれないが、ウチではバタークリームのそれしかお目にかかれなかった。アイスクリームもあったはずなのだが、この時の記憶に無い。
味に対して無頓着だったのか、食事のおかずもこれといって無い。鰯の焼き物、鯖の煮付け、ヒジキ、ニラ、蕨、蕗、ハスの酢漬け、長芋(とろろ)、サトイモ・ジャガイモを蒸かしたりカボチャの甘く煮たもの…殆どが大人の食べ物(まだ食料難であることも確かだったが)、今の私なら好物なのだが、子供が「好き」といえる食べ物ではない。トウモロコシも何故か、我が家は醤油で焼いたものは作ってくれなかった。消化に悪いと言われた。
黒川家に天ぷらはあったが、コロッケ、とんかつなどのフライは無い。純日本食である。どちらかといえば、美味しい食べ物ではなく、生きるための食事だったのだろう。おばあちゃんの口癖は「これは(食品の名前)体に良いんだよ」なのだ。

逆に嫌いになった食品がある。それはチーズである。気がつくとそれを食べていた。美味しい…記憶が無い。しかし毎日気がつくと口に入れていた。当時としては貴重な食品である。以前書いたように隣の畜産試験場からの調達でバターとこれだけは豊富にあった。みきばあさんも、私がひ弱なので少しでも栄養のあるものをと考えたのだろう。おやつ代わりである。

ある日、胸がムカムカしてきた。鏡を見ると顔が…体中に湿疹が出来ている。早速病院へ。最初は何が原因か解らなかったが、食生活を聞かれて原因がわかった。チーズの中毒である。「そんなものあるの?」であるが、試さない方が良い。結構苦しい思い出がある。その日から私はチーズ嫌いになった。もちろん、おばあちゃんも「食べろ」とは言わなくなった。むしろ私の目の前からそれが消えた。過ぎたるは及ばざるが如しか??


話は変るが、一年に数回、この地方にも雪が降る。その年の冬は記録的な大雪になった。
この天気に喜ぶのは犬と子供である。私も目の前にある牧草地に降り積もったスロープで遊ぶために家を飛び出した。子供である私の膝まで積もった雪に歩くのも大変だ。そんなに多く降り積もってもスキーをやる人がいなかった。雪国ではない地域で当時、レジャーとしてスキーで遊ぶ習慣が無かったのだろう。
誰の足跡も無い新雪を掻き分けて歩くのは力が要るが楽しいものだ。物置からダンボールを持ち出す。それをソリと見立てて滑ろうと言うのだ。既に何人かの子供たちが雪ダルマを作ったりして奇声を上げていた。頂上にダンボールを敷いて私は乗っかった。しかし、動かない。絶えず降り積もる雪は沈むが滑らないのだ。私の体重が軽すぎるのも要因だったのだろう。仕方が無いのでそこから雪の中にダイブ! その時、私は春の菜の花に飛び込んだ気持ち良さと同じ感じを覚えた。

それだけ雪が積もると道と畑の区別もつかなくなる。
逆に人の歩かないところを歩きたくなるのも子供心だ。30~40cmにもなると踏みしめても作物にも影響は無いだろう。もっともこんな冬場に作る者があったかどうか。
田舎には当時「肥溜め」と言うものがあった。現在は皆無だろう。人糞を肥料にするために溜めておく我が地元では直径1m50cmくらいの丸い穴である。周りは木で仕切ってあったりする。上に蓋がしてある場合もあるが、殆どがそれを入れてそのままだ。そばを通ると「プーン」と臭ったりする。

しかし、雪が積もるとその場所も分からなくなる。もう想像できるだろう。落ちた奴がいるのだ。雪の日に。しかもこれが女の子。首までドップリと浸かってしまった。近くにいた大人が急いで…では無く、手ぬぐいなどを手に巻きつけての大騒ぎ。泣いて家まで帰る後姿は痛々しい。
その子は今で言うホームレス寸前の親の元でバラック(我が家より更にボロの家)に住み、色は浅黒く服も古着を着ている、もちろん風呂も無いのでとても綺麗とはいえない傍から見れば可哀想な女の子だった。「肥溜め」に落ちた次の日から彼女は囃し立てられ苛められることとなった。
私は遠くから見ているだけで話もしなかったが(元々一緒に遊んだことは無かった)、今となっては一番嫌な奴だったのかもしれない。地方によってはご存知かもしれないが、昔から「肥溜め」にハマると「いい女」になる。と言う言い伝えがあった。まさかである…

それから十数年後、私はバスの中でその女の子を見た。
面影はタップリだが何と綺麗な容姿になっているではないか。目はパッチリ、色白で気品さえ漂う。あの言い伝えは嘘ではなかった! それも多分、彼氏と一緒に座っている。家はといえばその場所にはもう無かったが、近くの貸家にでも引っ越す経済的余裕が出来たのだろう。幸せそうである。
人間悪い時があれば、良い時もあるの極みだ。仲よさそうに二人はバスを降りていった。私は何であの苛められている時に助けてあげなかったんだろうと、勝手なことを考えていたものだ。

もし、綺麗になりたかったら、これは試して見ると良い…とはいえ、相当な覚悟と今では「肥溜め」を見つけるのが難しい。

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「あえぐ夢」 懐かしき私の昭和 幼年期-17 [思い出]

冬は正月以外、特別楽しいものは無い。大晦日の大掃除と正月用の食べ物作り、私と言えば当然忙しく手伝わされる。当たり前なのだが他の子供たちが外で遊んでいる姿を羨ましく見ていたのは、妬みか。テレビはいまだ無いのでラジオの紅白歌合戦を聞いてそのまま就寝する。黒川家で初詣に深夜から出かける人はいない。いよいよ元日になる。朝のお屠蘇での挨拶だけでいつもの日々だ。夫婦もおねえちゃんも酒は飲まない。かと言って元旦は外へ出てはいけない(他所の家を訪れない)慣わしだ。
凧揚げの場所は限りなくあったが、飛ばす凧が無かった。近くに駄菓子屋が無いからだ。街に買出しに行っても買ってはくれない。と言うか、兄のような遊びを教えてくれる相手がいないし、おじいちゃんはそういうものに関心が無かった。だから私自身が欲しいと思うだけの知識がなかったのだろう。

2日目になると正月としての行事が俄然忙しくなる。再三書いているように、おばあちゃんの社交好きに起因して年始の挨拶に訪れる人が後を絶たない。
そのときばかりは私も天国だ。何しろ訪問者がいると彼女は見栄をはる。洋服といわず、下着まで全てこの日のために年末に買ってくるのだ。新品の衣類でお客を迎えるのだ。この日に着た洋服がこれから一年間「よそいき」になる。つまり、出かけるとき一張羅の服である。
もちろん来る人はお年玉もくれる。人数が並大抵ではないのだ。その分、金額も子供にしては多くなる。喜びの一瞬である。いや、一時の喜びか…
どこの親も一緒ではあろうが、「子供がそんなに大きなお金を持っていてはいけない」と言う理由で「預かる」形の取り上げである。
もっと直接的には「私の付き合いがあればこそのお年玉だ」といわれる、「身支度も金がかかっている」のだと。確かにそうだが子供としては納得が行かない。その金が将来戻って来たことは無い。もっともこの頃は使う場所も無かったので素直である。抵抗し始めるのは小学校に入ってからになるのだ。

イベントが終わると冬の寒さにひたすら我慢の日々が続く。その頃の黒川家は隙間だらけの家屋である。朝日が雨戸の合わせ目から、そして木目の節穴から差し込んで、その光で目が覚める。寒い冬の朝だ。私は布団の温もりに何回も寝返りを打って眠りの余韻を楽しむ。

ドテラをご存知だろうか。寝具の一つだ。今でも通販などで販売しているテレビを見たことがある。
それは温かく首までスッポリと包まれる、肩に隙間が出来ない。それでいて変な形をしたものであった。第一、掛け布団に両腕を出すところがあるなんて…もちろん、その昔それを羽織って歩く日本画を見たことはあるが、いくら何でも昭和30年代にはそんな奴はいない。袖があってもそこに手を通しては眠らない。何のためだろう。

その時代は寝具は自分の家で作ったのだ。古い布団の綿(わた)を「打ち返し」(ドライクリーニングに似ていて、綿屋に頼む)に出して綺麗に、新しい綿を足してフックラとしてもらい、それまで溜め込んできた生地を縫い合わせてゆく。綿を広げて袋状に四角く作っていくのである。私はその手伝いをさせられる。それは仕上げの時だ。
綿が中で偏らないように、布団になる四隅に綿が行き渡るように二人が両端を持って揺すったり、ならしていく作業である。「シュウ持て」といわれて幼い力で一生懸命に出来たばかりの布団の側をもって動かす。それは大体冬が近づいて、少し寒くなってきた頃に行われる恒例行事だ。

着物の張替えと言うのもあった。少し古くなった着物を解く。数枚の布切れにするのだ。それを洗い糊をつける。細長い平らな板に貼り付けて乾かす。「洗い張り」といわれた。今は着物も着る人が少ないので、まして自分で作り直すなんて事をすることが無くなった。その布をまた新しい着物として縫っていく「仕立て直し」も自分たちでする。

貧乏だったからだろうか、それともその当時は皆そのようなことをしていたのだろうか…

「三丁目の夕日」と言う映画のDVDを観て思ったことがあった。「湯たんぽ」である。そのシーンでは真新しい綺麗なそれに、お湯を入れていた。東京では常識なのか、それとも我が家のやり方が違ったのか。
ウチの湯たんぽは裏が焦げたように茶褐色でススがついていた。もちろんそのまま足に当てるわけではない。袋を作ってそれを入れるが、その前に「湯たんぽ」を直火にかけるのだ。そう、昨日使ったままの冷たい水の入ったものを。栓をあけて沸騰させる。火から降ろしたら火箸などを使って、その栓を締めるのである。なので何時も日に炙られた汚い湯たんぽなのだ。蒸発した水を足すくらいで、一冬中の水を換えることは無い。
現代のホームセンターで売っているポリ容器のような火に掛けられないものではなく、金属製である(陶器製もあったと思う)。昼間からコトコト?と火鉢に乗せておくこともあった。炭火なので直ぐには沸かないが、節約の知恵だ。

冬の暖房といえばこの火鉢と初期は囲炉裏、そのうち掘り炬燵になった。今のような家具調の和室の平べったい上に置くタイプの炬燵ではない。部屋の真ん中に四角く、大きなものだと一畳くらいの穴で、床より高さ60cmほどに低くしてある。周りはコンクリートや木製である。コンクリート(我が家はこのタイプ)では足を置くところに板を敷く。
真ん中に炭を熾してくべるのだ。その中で眠るのが私は好きであった(もちろん、火に触れないように金属製のガードは被せてあった)。唯一そのときだけは、おじいちゃんに抱かれて寝床に運ばれる。意識が遠のく中で幸せを感じていた。炭を多く使用していたが、二酸化炭素中毒になるような密閉性の高い家ではない、たまに頭が痛くなる程度だ。

「火鉢は四季の中で秋・冬・春とその大半使用していた。黒川家はお茶が大好きなのだ。始終、鉄瓶で湯を沸かしている。そのための火鉢なのだ。もちろん、餅も焼くがこれが一番具合が良い。炭さえあれば一日中何かが五徳の上に乗っていた。煮物も、芋を焼くにも… 夜中にも火を消すことは無い。「それでは危ない」と言われるかもしれないが、これが便利なところ。灰を被せるのだ(灰は炭か燃え尽きると溜っていく)。するとほこった(多分、方言だろう他所では「熾った」である、全体に火が行き渡ったの意)炭は朝まで消えない。灰を広げて、そこへまた新しい炭を加えれば改めて火を熾す必要はないのだ。便利ではあったが、本格的な暖房には適さない。関東大震災級の地震があれば即、火事に発展する。
時代から次第に取り残されてしまった代物である。私はこの風情が好きではあるが、残念ながら現在は我が家の火鉢も物置に埋もれている。

余談だが、夏の掘り炬燵は厚い板でフタをして、その上を井草の敷物で隠すのである。

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「あえぐ夢」 懐かしき私の昭和 幼年期-16 [思い出]

高い空が好きだ。低い家並みが、どこまでも続く波打つ稜線が、夜の降って来るような満点の星を幼い目でじっと見つめていた日々が懐かしい。
それ自体が、今は夢だったのかも知れないと思われるほど遠い昔になってしまった。

夏の出来事を少し記しておこう。夏はとにかく何回も以前から書いているように打ち水と団扇、それに風鈴。それでは涼しくはならないようだが当時としては、開け放した障子やガラス戸に網戸は無い。
蚊取り線香と天井から吊るしておくハエ取り紙だけが虫対策だ。なにしろ、隣が牛屋である。ハエが我が家まで飛んで来るのだ。その数は尋常ではない。三日も吊るしておくとハエ取りのテープはそれが張り付いて真っ黒になる。汲み取り式のトイレも一因なのだが、当時は畑に人糞を撒くことも当たり前だったので、ハエは飛んでいて当たり前ではある。
ゴキブリは余り見当たらなかったが、屋根裏でねずみが駆け回って眠れない夜も多かったことを付け加えておこう。
たまに来る氷屋から1貫目を買って、たらいに立てておく。涼しいのかどうか…見た目である。私は時々それを舐めて怒られる。小さくなった最後は勝ち割り氷にして皆でしゃぶるのだ。

夜の虫対策は当然、蚊帳である。これは私の役目だった。各人の布団を敷き、6箇所の丸い取っ手を柱などに取り付けてある金具に止めていくのだ。蚊帳には腰を屈めて入るのだが、その時に蚊が入ってしまったら逆に一晩中悩まされることになる。その頃にマットや液体の殺虫剤は無い。
当然、朝になれば蚊帳をたたんで押入れにしまうのも私だ。八畳一杯をカバーするこれは子供にとっては重く、扱いにくい。それだけで汗ダクになってしまう。

夕立はエアコンも扇風機も無い時代では涼になった。私のような臆病者は夏の暑い最中に布団をかぶって雷をやり過ごしたものだが、今のように高いビルの避雷針も無いため、そこいらじゅう、たとえば隣の家の高い木などに落ちた記憶がある。
そのため、停電は夏の風物詩だ。ろうそくは欠かせない。変電所にでも落ちれば復旧に一晩中かかり、真っ暗な夜をすごすことも多かった。
しかし、テレビも無く、今のように娯楽があるわけではないので飯を食べ、お茶を飲んだら寝るだけである。ちなみに、蚊帳には雷が落ちないとおじいちゃんに聞かされたが、本当だったのだろうか。

夏の催し物は今も昔も変らない、花火と盆踊りである。
現在、花火を見ようとすると「会場」まで行かないと殆ど見えない。何故なら高層ビルの乱立で、可能といったらマンションの上の階に住んでいるか、隙間から少し見える程度。しかし、昔はそんな高い建物は無い。平屋の窓からは無理にしても、屋根に上るとか、2階ならば物干し場から鑑賞できたものだ。
私といえば、おじいちゃんの勤め先、大学病院の屋上に行けばどこよりも高い場所になる。何を患っているか分からない患者(中には伝染病の人もいた)と一緒に歓声を上げたものだ。

「盆踊り」は踊りの会を開いている(前回記述)おばあちゃんの独壇場である。婦人会会長であり、出たがりの彼女はもちろんヤグラの上で、みんなの手本? となって振りを見せるのである。
当然私も駆り出される。当時は子供会も整備されていなかったので「シュウ、お前太鼓叩け」と周りの人に言われて練習させられる。隣の農家(といっても300mは離れている)では馬の皮で太鼓を製作していた。そこで習うのに近場の子供で手っ取り早いのは私だった。
後に子供会が結成されると実は結構キツイ太鼓の練習からは逃れられた。

夏休みになると山部家が遊びに来ることがある。もともと海の街である観光地に住まいのある家族なのだが、アサリやハマグリは採れない。こちらの海は潮干狩りが出来るので、それが目的だ。
この時は「海の家」を借りる。地元のその家は海の上に建っている。満潮になると真下から波の音が「チャプ、チャプ」っと聞こえ、涼しさを増す。干潮になると遠く数百キロ? に渡って砂浜になる。
私のいでたちと言ったら白い下着のパンツである。海水パンツなどは持っていない。水に浸かれば透けて見える。地元の子供は殆どがそうではあったが。
明日香や勲は海の子である。当時としては車も所有している、比較的裕福な家の子なのでチャントした水着で、子供心にも恥ずかしさで一緒に貝を採ることを躊躇したことを覚えている。

さて、貝を沢山採ったので今夜は焼きハマグリを食べられる。と思っていたら大間違いだった。これは山部家へのお土産。家では一切出てこない。子供はワガママなものである。「僕が一生懸命取ったのに…」と思うほど本当は採れていないことは忘れている。
プールも無い当時としては海の波に洗われるのが唯一の夏の涼だったのかもしれない。だからと言って子供一人で毎日行く訳にもいかない、一年に一回の「海の家」だ。

私のこの時期は四季を通じて、まったくの自然だ。春はモンシロチョウ、アゲハチョウ。夏はカブトムシ、クワガタ、セミそれに蛍。秋はオニヤンマ・ギンヤンマなどのトンボ取りに走り回る毎日。そういえば赤とんぼの大群が飛び交っていたり、遠く西の空が夕焼けに染まる頃に群れをなして、寝床に帰る鳥の整然とした列が遥か頭上を通り過ぎるのが印象的だった。今の都会では見られない風景だ。

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「あえぐ夢」 懐かしき私の昭和 幼年期-15 [思い出]

私が幼い頃は、とにかく歩くことが多かった。今の子供のように一家に一台の自家用車があれば、どこへ行くにも歩かないことがままある。幼稚園や保育園はお母さんの送迎の車で溢れている。

話が前後するが4才の頃に私は黒川のおばあちゃんの友達で、村に在住していた「ヤクルトおばさん」と仲が良かった。いや、可愛がってくれていたのだ。(以前ヤクルトの配達は専属ではなく、一般の主婦が委託をされていた、決してお姉さんではなくおばさんである)朝9時、家の掃除が終わる頃になると毎日やってくる。名前は今となっては忘れてしまった。「シュウちゃん、いくよ」と言うのが第一声である。

暫く井戸端会議をしたあと、私を連れてその飲み物を配って回るのだ。その距離たるや並ではない。約2時間。たっぷり、しかしノンビリと主に試験場の中に点在している官舎がお得意さんだ。手をつなぎおばさんは片方に布袋に詰めたヤクルトを持って、二人で歌を唄って歩く。

曲名は「おーい船方さん」だ。といっても、ご存知の方は少ないかもしれない。確か、「三波春夫」だったと思う。これを全曲、繰り返して唄う。彼女は私にこの曲を覚えさせようとしたのだろう。最初は少しずつ、一番を唄えるようになると暫くは繰り返し。それが完璧になると次を…なんて毎日。 その当時は「三橋美智也」「春日八郎」などの歌手が活躍していたと思う。 今のようなJ-POPなんてハイカラなものは無い。浪花節から発生した、演歌とも少し違う歌とか、声楽・クラシックなどから出てきた「東海林太郎」、少し今風な「神戸一郎」「島倉千代子」「美空ひばり」などの流行歌手が唄っていた。 曲名までは…興味のある方は検索で調べて欲しい。私の歳では興味の無い事柄である。 とにかく4才でこの「おーい船方さん」だけは通して歌えた。今でも一番だけは完璧だ。

黒川のみきばあさんは、自宅で舞踊教室を開いていた。この人、専業主婦で昼間はやることがない。なので村の女性を集めては踊りを教えたり、知らないと教わったりのサークル活動である。先生がいる訳ではない。和気藹々のグループだ。勿論、前出のヤクルトおばさんもこの仲間である。私には皆、ラジオ体操をやっているようにしか見えなかったが。 その活動で私は「レコード係」を仰せつかった。 当時のレコードは硬く、落とすと割れてしまうこともあった少し前のアルバムレコードの大きさくらいあり、それに一曲しか入っていない。SP盤と言われているものだ。取り扱いに気を使う。そのパッケージには歌手の顔は印刷されていない。ただ曲名が記されているだけだ。大体、今のCDのように箱型の硬いものではなく、安っぽい袋の真ん中に直径5cmくらいの穴が開いている代物だ。だから歌手の名前と顔は一致しない。この「レコード係」が小学校に上がって、私の人生を狂わせることになる。それは後日。

プレーヤーと言えば格好が良いが、蓄音機になる。スピーカと言えるのだろうか、ラッパの先のような増幅管が大きな口を開いている、某レコード会社のマークで犬が聞いているあれである。駆動はモーターではなく、おそらくゼンマイなのだろ。私が手でレバーを回す。子供のことである、他に気をとられていると回転が遅くなって、踊りのリズムが乱れる。「シュウ、何をしてるの、チャントみてなさい!」と窘められる。 針は鉄製の物を一曲ずつ取り替えなければならない、えらく面倒な機械である。 そんな中でおとなの歌を結構覚えた。何度も繰り返されるからである。正確ではない。鼻歌のように口ずさんでいたのだ。子供の童謡と言うやつは一曲も歌えなかった。勿論、子守唄は唄ってもらったことは無い。おばあちゃんは自分で認めるくらいの音痴だった。

もう一つのエピソードは明子おねえちゃんと街へ出たときのことである。 こんなことは珍しかった。その当時20才位だった彼女は周りの目を気にして「預かりっ子」の私と一緒に行動するということは恥ずかしい? からだ。 なので、一緒に歩く時も少し距離を置いて、「私とこの子は関係ないのよ」みたいな訴えがありありとわかってしまう。店に入っても私は離れて待っている。そんなある日、多分おばあちゃんに「やんごとなき用事」が出来たのだろう。出かけると言うおねえちゃんが、私を連れて行くことになった。 街までは私の好きなバスで行く。デパートに行くためだ。中に入っても相変わらず売り場のこちらのカドで私は待つ。彼女は彼方で買う物を物色している。と、誰かと話し始めた。多分友達と偶然会ったのだろう。これが長い…何時まで待っていても終わらない。 私は痺れを切らしてしまった。だからと言って友達と話している彼女に近づいて「早くぅ」なんていったらどんな罵声を浴びせられるか解らない。

仕方が無いので「自分ひとりで帰る」ことにした。それも断りも無く。 私はお金を持たされていない。バスで来たのは出してもらったが、黙って帰るにはひたすら歩くしかないのだ。 しかし、脚力は毎朝のヤクルト配りで自信がある。4才の子供が数十キロ離れた街中から田舎まで歩いてしまったのだ。3時間くらいかかっただろうか。家には誰もいない。ぽつんと玄関の前で立って待っている。庭に回っては葉っぱをちぎってみたり、それでもおねえちゃんの話が終わるのを待っているよりはマシだった。

彼女(明子)の方は大騒ぎである。私かいなくなった。迷子になったのか、誰かに連れて行かれたか…当時は「人攫い」と言われる営利目的ではなく、労働力として子供を誘拐する犯罪者もいた。 怒られると「人攫いに連れて行ってもらいますよ」と言う切り札を言う親もいた。

いくら邪魔な子供とはいえ、自分が連れて歩いて消えてしまったのだから彼女は真っ青だ。気付いてそこいら中を探し回ったようだ。「警察にも」と思ったらしいが、一応親の指示をと家に帰って来た。 おばあちゃんと言えば用事を済ませて帰ってきたら、私が一人でいる。最初は不思議な顔をしていたが、訳を話したら笑いながら「よく一人で帰ってこられたねぇ」と感心しきりだ。この人こういう武勇伝的な行動は大好きなのだ。実にあっけらかんとしている。自分がやられたら怒るくせに!

明子ねえちゃんが泣きべそをかきながら帰って来たのはその日の夕方だった。私が居たのを確認した途端、本格的に泣き出した。私は何かスッキリしたそして、ここまで帰ってこられた土地勘を自慢したい気持ちになっていた。とにかく、よく歩いた。

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「あえぐ夢」 懐かしき私の昭和 幼年期-14 [思い出]

私の記憶の中で5才までに特に思い出に残った事を記してみたい。子供の頃のしかも幼い時はやはり食べ物と乗り物だろう。

楽しみといえば、テレビはまだ無いのでラジオである。と言っても殆どは大人物が多い。当時の午前中に「パパ行ってらっしゃい」と言うラジオ番組があった。中村メイコと言う女優? が一人で何役も声を変えてドラマ仕立ての、それでもそれほど長い時間の放送ではないが、その面白さに毎日楽しみにしていたものだ。
あとは幼稚園に行っていないのだ文字が読めないので漫画とか、童話の本は持っていない。そんな子供が外での遊び以外には、美味しい食べ物が記憶に残る。

かと言って毎日の普段の食事には特に覚えが無い。飽食の時代ではないからだ。今、食べれば珍しいとか懐かしいなんて思うのだが、当時としては粗食の部類に入る。ハンバーグ・カレーライスはおばあちゃんのレパートリーには無かった。煮付けとか、茹でた野菜に醤油をかけるだけである。ケチャップ・マヨネーズ・ソースもウチの食卓には乗らない「ハイカラ」は好まない家族だ。

夏のアイスキャンデーは格別だった。覚えがあると思う、あのサッカリンやチクロと言う、今では使用中止になった甘味料・添加物入りの何と美味しかったことか。今の糖類とは一味違う、今では例える物が無い味なのだ。
テレビの料理番組もそうなのだが、ここでどんな説明をしても画面や紙面では伝えきれない。経験したものだけが分かる味だ。
飲み物ではラムネもあった。今のとは違うと思う。やはりそれなりの添加物は入っていたのだろう。売っている店にも冷蔵庫が無かったり、あってもそれには入れていない。大体がバケツに水を流して冷やすのだ。瓶は返すのだからその場で飲み干すことが多い。親でも付いてくれば信用で持ち帰りも出来るが、瓶代が加算される。トコロテンもあったが、あれは大人の食べ物だ。
子供の食べ物はあと数年たって、私が駄菓子やへ通うようにならなければ普通の食料品店で買うのはそんなものだ。

そのほかとしては果物? に尽きる。井戸に冷やしたスイカ、丁度適温になるので冷蔵庫などのように冷えすぎが無い。これが甘さを一番感じる。トマトも同じである。大きなバケツ一杯100円くらいでリヤカーを引っ張る八百屋から買うが、おまけが倍くらい付いてくる。いくら食べても減らないが、いくら食べても美味しいし、体にも良い食べ物だ。

地元はアサリやハマグリ、海苔の産地でもあった。現在は「青柳}などと飲み屋で酒の肴や料亭のメニューにもあるが、当時バカ貝といわれて捨てていたもの。食べたことが無かった。殆どがハマグリだ。自転車で数十分も走ると潮干狩りができる遠浅の海岸だ(勿論、私はおじいちゃんの自転車の荷台だ)。海の家が数キロも立ち並ぶが、地元の人間は秘密の階段から降りてその日のおかずを取る。潮汁か焼きハマだ。今のようにレパートリーはそれほど無い。それでも現在よりも美味しい…水が綺麗だったせいか。粗食でありながら、山の幸も海の幸も新鮮でウマかった。

昭和31年、年末もあと数日で新しい年になろうとする冬のある日、隣の中村牧場の「大きい方のあんちゃん」が隣の市の放牧場に仕事に行くので。乗せて行ってやると言うのだ。バス以外、オートバイしか乗ったことの無かった私は「車に乗れる」と飛び上がった。
「家の人に聞いて来い」と言うので小走りに我が家に戻りおばあちゃんに懇願した。機嫌の良い時はこの人も優しいのである。OKが出て野球帽をかぶって早速隣の牛屋へ。と、庭に出してきた車…はセダンでもなければ普通のトラックでもない。

オート三輪と言うクルマをご存知だろうか。「ああマツダの三輪の」と想像するのはチャントした街を走っていたタイプだろう。
私の目の前にあるのは何とも危なっかしい代物だった。第一にドアが無いのだ。両方とも。あの憧れのハンドルが無い。いや、あるにはあるがオートバイのような左右に延びている、それでいてそれより大きくて不細工な…。もっと怖いのはキックがあって正にオートバイ形式。それがあると言うことは下まで踏み込むので床が無いのだ。地面が見える。運転手は真ん中に座る。助手席といえば簡単で小さな椅子が付いている。大人なら足を伸ばすとステップが付いていたが、子供では届かない。宙ぶらりんのままで、しかもシートベルトなどあるはずも無い。

未舗装道路をトラックタイプのそれは乗り心地も非常に悪い。上下左右に体が浮く。体重が軽すぎるのだ。もし、大きくバウンドすれば、私は床の無い隙間から地面へと落ちてしまう。しかも走っているこの車の下敷きになる。それは恐怖の行きかえりだった。
前など見ていられない。四六時中地面を見ている。ドアも無いので振り落とされないように、横のフレームにつかまる。助手用の取っ手に捕まろうとするが、手に汗をかいていてツルツルと滑るのだ。元来一人乗りが主だ。

だったら荷台に乗ればよいと言うことも考えたが(当時は荷台に乗っていても警察から咎められることは無かった)、後ろには牛のフンが積まれている。とても乗れたものではない。
私の最初の車体験は悪夢と終わった。その夜は精神的に疲れて、死んだように眠った覚えがある。

もうすぐ、5才も過ぎ誕生日を迎えるがそれのエピソードは別に無い。感激の無い貧乏人の日々の続きだ。そうして年は過ぎてゆく。
年末の大掃除には我が家はボロ屋の割りに忙しく、私もこの歳で障子の張替えを覚えさせられた。外で水に濡らし古い紙を破る。この時が一番楽しい。背が低いので下半分、フノリを煮て刷毛で棧に塗っていく、新しい障子紙を貼ったらカミソリで端を綺麗に切る。6才になって初めて経験する仕事だ。黒川家の親は将来のためと思ったのだろうが、現在の我が家には障子は無い。


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